翻訳のMu-ra(ムーラ)

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桜は東京では見ません

より上質な翻訳を求め、天才画家ラファエロにインスパイアされようと上野を訪れたのは3月上旬のこと。今年は桜の開花が早かったとはいえ、まだ咲くそぶりさえ見られませんでした。

それから繁忙期に突入して外出する暇はなくなり、花見をしている場合ではなくなりました。犬の散歩ついでに近所の公園で夜桜を見るか、フェイスブックで友達がアップしてくれる桜に「いいね!」するか。年度末と重なるため、毎年このパターンなのです。

この仕事をやっている限り花見はできないのかというと、そんなことはありません。桜前線を追えばいいんです。仕事が一段落したころ、今年は群馬で前線に追いつきました。そしてゴールデンウィークの帰省時にも会津の桜をながめるのが恒例になっています。

ただ今年はタイミングが合わず、ソメイヨシノに再会するには遅すぎ、話題の「八重の桜」(ヤエザクラ)を見るには早すぎる帰省となってしまいました。

群馬にて。Wさくらと愛犬ベック

群馬にて。Wサクラと愛犬ベック

エダマメ中毒とイン/アウトバランスについて

世の中いろいろな中毒があるもので、私は中学の弁当に毎日のように枝豆が入っていたことから「エダマメ中毒」を疑われていました。

エダマメ中毒も悪くないのですが、それより憧れていたのは「活字中毒」でしょうか。でも実際にはそうでもなく、仕事が忙しくなると新聞さえ軽くスキャンして済ませてしまうことも珍しくありません。

しかし、活字を取り入れないことがあまりにも続くと、実は仕事にも良からぬ影響が及ぶため、意識して取り込むようにはしています。翻訳ばかりして何も読まないと、いわばインプット不足のような状態になってしまうわけです。

「別に自分で文章をつくるわけではないのだから、翻訳するだけなのだから関係ないじゃないか」と思われるかもしれません。ですが、「読みやすい文」を意識して翻訳しようとすると、どうしても表現の幅が必要になり、それを広げるにはインプットが必要なのです。それが不足してくると、表現上のボキャブラリーの幅が狭くなり、スムーズな翻訳を妨げられるように感じてしまいます。

そういう意味では、つまり活字を取り入れないと問題が生じてしまうという意味では、本物の活字中毒と言えるのかもしれません。この連休は(といっても弊社は休みなく営業しておりますが)できるだけ多くの良文をインプットしてタンクを満タンにする予定です。

ちなみに本物のエダマメ中毒ではなく、「24時間枝豆を食べないととんでもないことになる」と伝えてしまった同級生たちには申し訳なく思っております。

得意料理のフルーチェ。とってもおいしいです

得意料理のフルーチェ。とってもおいしいです